「法的安定性は問関係ない。国を守るために集団的自衛権の行使が必要かどうかというのが大切である」とは聞き捨てなりません。それはキリスト者として留意すべき点があるという意味です。実は聖書にも「法的安定性は関係ではない・・・」という趣旨の言葉があります。それは「安息日は人のために定められた、人が安息日の為にあるのではない」です。やや乱暴に言えば、事と次第では法律など二の次なのだという事です。見方によれば、そういった考え方を聖書は包含しています。
以上の問題について以下の二点を指摘しておきます。
1)権力を縛る憲法
憲法とは権力を委ねられている者自身が自らの暴走を抑止するために負わした軛である。にも関わらず、その憲法解釈を一内閣(権力者自身が)の独断で変更したことは間違いである。
2)法の精神と本質
元川崎市市長、伊藤三郎氏は「法も規則も人間愛を超えるものではない」と言って指紋押捺を拒否する在日外国人を国に告発しなかった。これは明らかに法律違反である。しかしその目的が権力者自身の権力の及ぶ範囲拡大を目的としているのではなく、その法事態が未成熟でその未成熟であるが故に弱者を救済できないとするなら「法の下の平等」という精神の下に法と規則を乗り越えて行く、また行けるのが人間である。
最近、言葉が乱れています。それは日本語文法に照らしての事ではなく、言葉尻を利用(悪用)する事例が目立つという意味です。我々はその度にその言葉が本来語られた原点に立ち返って検証する作業が必要となり、今後そのような言葉の時代に突入すると思います。即ち広辞苑などで意味を確定するのではなく、具体的な事例の文脈に落としてその言葉の意味に制限を加える(悪用されないように)という事です。
それはイエスの語録集(Q資料)の意味(解釈)が無制限に拡大されていく中で、福音書記者たちが具体的な物語の中にイエスの言葉を配置し、その意味を限定したような作業に似ています。言葉は時間と空間と関係(即ち状況)の中に生まれます。故に、時にその言葉はその生れた状況に戻さなければひとり歩きしてしまいます。そんな糸の切れた凧のような都合の良い言葉を悪用する輩が増え言葉の乱れが生じています。多少面倒くさいですがその言葉の生れた状況にその言葉を返してその意味を捉え直しましょう。この言葉の乱れた時代から言葉の力を取り戻すために。