視座を移す

今年の「障がい者と教会の集い」では本田哲郎神父を講師として招き、彼の釜ヶ崎での経験談を通じて愛について深い示唆を与えられました。それは「愛される事の辛さ」であります。炊き出しで、ただで飯を食わせてもらう側の辛さであります。「隣人を自分のように愛しなさい」という教えは、あかの他人を実の姉妹兄弟のごとく愛するように理解してきました。しかしそのように愛される側は、時には迷惑であり、また負債を負わせる結果を生みます。

英語の辞書でアガペー(愛)はto feel(感じる)と訳されていると本田神父は申しました。愛の押し売りは自らを勝ち組とし、愛される側を支配します。それは「水平社宣言」の一節に表れています。

「これ等の人間を勦る(いたわる)かの如き運動は、かえって多くの兄弟を堕落させた事を想へば・・・」

巣の横に力とかいていたわる。母鳥がひな鳥の口を開けて、食べ物を入れてあげ、感謝されることに喜びを求めるそのような関わりは、大の大人にとって負担を強いられる結果を与えます。

被差別部落民にとって、同和対策事業は助成による勦りではなく、対等な人間として向き合うことを要求しています。それに気づけないのは彼らを勦りの対象として愛を押し付けている故であって、その押し付けは彼らにとって時に苦痛を伴い、等しく釜ヶ崎や寿の日雇い労働者にとっても然りです。

悔い改める(メタノイア)とは視座を移すという意味であり、自分が愛する所に力点があるのではなく、隣人の視座に立って、何を必要とされているか(要求されているか)をみつめ直すということでした。その隣人に視座を移した時、神のみ心が明らかにされるのでしょう。

メタノイアしてto feelする。その時、我らは真の意味で解放され、「体の中で他より弱く見える部分がかえって必要なのです」(Ⅰコリント12.22)というパウロの言葉に「謙虚」にアーメンと言えるのだと思います。視座を移し、感じて参りましょう。そこに神のみ心があると信じて。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です