後期に入り農村伝道神学校での講義が始まりました。
先週木曜日、学校礼拝で織田信行牧師(組織神学担当)よりヨブ記から説教を頂き、深い示唆を与えられました。苦しむヨブは終始自らの不幸の原因を、彼を訪ねてきた友らに問いますが、しかしその問の矛先は究極的には神に向けられたものでした。
不信仰とも思えるヨブの神への問から、織田牧師は、神学とは既に知られている答えを習得して行くものではなく(勿論そういう一面もあるが)、「神の前に正しい問いを立てること」であると結論づけました。
神学を志す者に限らず、キリスト者は第一に神のみ心を求めることを要求されます。しかしそのみ心とは既に知られている事ではなく、自らが神に対して立てたその問いの先に存在するものではないでしょうか。
しかし、では我々は如何にして神の前に正しい問いを立てることが出来るのか。それは難解な神学書を学ぶ先にあるのではなく、イエスの「行ってあなたも同じようにしなさい」(ルカ10.37b)とする道先にあるのではないか。そしてその道で示された究極的な問こそが「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ(我が神、我が神、なに故、我を見捨てたもうや)」(マルコ15.34)に他ならない。ではこの問いの先にある神のみ心とは如何に?それは正にこの世の不条理に他ならない。
この世は、神の国に非ず故に、完成された神学体系(答え)程、怪しく胡散臭い存在はない。それはその神学体系の探求を放棄する事にあらず、探求するが故に、不条理なこの世においては自ずと、「問い」との遭遇を避けられない宿命ある。故にこの世がこの世である限り、我々は神の前に正しい問いを立て続けなければならないのであろう。
牧師であり組織神学教師としての良心を織田牧師の説教の中に見た礼拝でした。