今日はわたしの日常の現場であるひきこもりの自助グループについてお話します。
わたしは子どもの頃からのいじめで自分の中に閉じこもっている子供でした。
どもりやひきつけを起こしました。解放されたのは教会の人々との出会いでした。そこにイエスを見たのです。
イエスの宣教は関係づくりから始まります。このグループは「社会参加の場面が何らかの理由で狭まり、長期にわたって就学、就業などが損なわれた人」の集まりです。
なぜ、ザアカイの聖書箇所を引いたのか、それはこのグループ活動がこのザアカイの物語と重なるからです。冒頭のイエスの言葉「人の子(イエス)は失われた者を捜して救い出すために来た」と記されています。「失われた者とは」ザアカイをはじめ社会の隅に追いやられた者弱い者を指します。ひきこもりの自助グループのミーティング参加者はザアカイに重なります。ミーティングは何をするのかそれは聴くことから始まります。
参加者は藁をもつかむ思いで出てきます。会場へ来るだけで拍手ものです。参加者にはハラスメントからのひきこもりなど様々な背景があります。自分のことを言葉化できません。また、決して綺麗な話ではありません。発言中の妨げは厳禁です。こうしてその人の言葉化を待ちつつ聴くのです。忍耐がいります。しかし、言葉化することによる解放があります。
イエスもザアカイの話を忍耐を持って受け止めたのかも知れない。虐げられて隅に追いやられた人の恐怖する言葉、それは「黙れ」です。わたしは、身近に足元にそんな人がいるのではないかと思っています。その意味で冒頭に掲げた「失われた者」がいるのではないかと思っています。自分の言葉を失った小さくされた人の小さな声に聴く者で逢ってほしい者です。イエスはその人のためにも十字架で死なれたのです。