昨日(10/31)、大船教会にて部落差別問題小委員会主催の集会が開催され、教団部落解放サンターの東谷誠委員長をお招きしました。
東谷さんとの出会いは、家族揃って在日大韓西成教会から教団いずみ教会に転会した40年前に遡ります。当時、私は中学生で部落差別問題について何も知らず、東谷さんが部落解放運動に参加していた事など全く気づかないでおりました。
昨日、東谷さんは講演の冒頭で「私の話を聞いて、可哀想だとか思わないで下さい。一つの事実として聞いて頂きたい」と前置きをして約1時間、大変重い部落差別の歴史と現状を自らの体験を交えて語ってくださいました。
「水平社宣言」に、「人間を勦(いたわ)るかの如き運動・・・」という下りの一節があります。そこで、被差別部落民は可哀想な人たちという見方、接し方そのものが差別だということを痛切に反省しています。そして「吾々がエタである事を誇り得る時が來たのだ。」と宣言し、人間として対等に向き合う事の自覚と要求をしています。
人前で自分をさらけ出し、恥を晒して語ることは大変つらいことです。しかし社会的少数者らは、対等な人間であることを訴え、辛いけれどもそれを人前で語るのです。しかし聞き手はいたってそれを「可哀想に」として受け止めてしまいます。
語り手が対等であることを要求して自らを晒しているのであれば、聞き手も自らを晒すべきではないか?それが対等というものではないか?そんなことを思わされました。
参加者らにとって、「可哀想に」と同情する所に身を置くこと自体が差別なのだという極めて難しい問いの前に立たれた意義深い集会でした。
※ 水平社宣言
1963年(大正11年)3月3日、日本の歴史上初めて被差別者自身が自主的な運動で解放を勝ち取ることを宣言した歴史的文書。