考えるとは

フランスで起きた同時多発テロを受け学生らと共に考えました。

かつて「リング」という映画に「呪いのビデオ」というものが登場し、そのビデオを見たものは2週間後に死んでしまいます。しかしビデオを見たものはそれをコピーして他人に見せれば自分は助かります。そして見せられた者たちが同じ事を繰り返していくという物語です。結果として呪いのビデオは地上に増え続けそれを見る人の確率も増えていきます。この呪いのビデオは人間の憎しみや敵意を象徴しています。

さて、ビデオの増加を防ぐにはどうすれば良いか?学生らに尋ねましたが、誰も答えることが出来ずそこに沈黙が漂いました。

私はその沈黙を共有する中で、平和に関する事に限らず、元来「考える」とはこういう事だと思いました。その責任は他ならぬ私自身である事に直面する時、人は言葉を失います。そして自己責任という都合の良い言葉を置き土産に対話の舞台から去って行くもの、高みの見物をするもの等々。

答えは簡単なのです。私はそのビデオをコピーしない。私は他人に見せない。極めてシンプルな答えですが、その答えは同時に私自身に困難な決断を迫ります。

人はその土俵で考えていかねばなりません。その土俵は見難く厳しいものかもしれません。しかしその土俵に立たないで、問いを立てたり、その問いを解いたりする行為は、自分がそこに立たない言い訳や自己正当化に過ぎず、結果的にそれらが呪いのビデオを増産しているのでしょう。

フランス発同時多発テロ。これから始まる復讐の連鎖を目前にして、「考える」とは如何なる行為か。そこから始めたいと思いました。

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