毎年、待降節を迎える度に、主の降誕に備える意味について考えさせられます。
それは単に飾り付けなどクリスマスの準備をする事に留まらず、キリストは何ゆえ人となりお生まれになったか?また終末に備えるキリスト者としての心得のようなものについてであります。
今、川崎戸手教会は戸手四町目河川敷の街での使命を終え、神の示される新しい使命に向かう準備の時を過ごしています。しかし現場はそれほど単純ではなく、何かを終えて何かが始まり、しかしながら何かが連続しており、何かが未解決であり、何かを実現できないままで終わりそうです。ではその何かとは何か?様々な何かが不明瞭です。
人は神のみ旨なるものを求め、その求めに内在する無自覚な自己実現が結果的に神のみ旨なるものを明瞭にする事を妨げています。一人の人間の中でさえ十分に整理できないでいるのに、教会に集う者たちが考えを突き合わせるなら、それはもう天文学的な領域に至る認識のズレが生じるのは当然であり、当然であるにも関わらずそのズレにさえ私たちは気づいていないのかも知れません。
今、川崎戸手教会に集うものに求められている備えとは何か?年に一度与えられる待降節。それはキリスト誕生の原点をじっくり見つめる事ではないでしょうか。であるならば川崎戸手教会は今この時、我々は何処から来たのか?そして今何処へ行こうとしているのか?そこをしっかりと見つめましょう。このヨルダン寮で私たちは教会とは何であるかを常に考えさせて頂きました。そして本質的には不自由しませんでした。
新しい会堂を考えることは創造的で楽しいことです。しかし形に捕らわれないよう気を付けましょう。器は大切ですがそれが無自覚のまま本質に成り代わる時、私たちは使命を見失い不毛な対立が生じます。備えとは正に神のみ旨を聞く心を整えそれを保つことではないでしょうか。しっかり備えて望みましょう。