「聴くこと」
瀬山一郎
私は、ひきこもり経験者として、ひきこもりのミーティングに参加しています。
ひきこもっている人の多くに見られるのは、自分を責めることしか許されていない人です。
そのように「刷り込まれている」人です。自分が不当に扱われているのに、誰かに相談したり「助け」を求めたり、抗議することは悪いことだと刷り込まれていて、その事に虜となっている事に気付いていない人です。
「ひきこもり」は厚労省ではこのように定義しています。
「著しく社会参加が阻まれ、自宅以外の生活が長期に渡って失われた状態」。
しかし、それは「山の頂」、「氷山の一角」に過ぎず、私はそこで、「助けを呼べない人」不当な扱いに「抗議」の声を出せずに誰にも相談できない人がいることを知るのです。現在、4か所で、ミーティングを実施しています。なぜか参加者の中で何らかの宗教を信仰している方々が目立ちその中でも教会関係者が断トツなのに驚きます。この課題はひきこもりだけのものではないと考えます。
ミーティングは、5名ないし10名程度の参加者で、司会者を立ててあるテーマ(例えば「生きづらさ」とか)に沿ってそれぞれの当事者の思いの淵を言葉化する場(いわば泣き場)です。ここに集う人は回復途上の人、経験者です。ここでは、ミーティング中に意見を禁じています。いわば「言いっぱなし、聴きっぱなし」です。1.5Hのミーティングを終えると、場所を移してコーヒーショップなどで質問や相談を受けます。わたしは、もっぱら聴くことにしています。聴く人がいるだけで話す人は心休まるものです。このことはひきこもりだけのものではないと考えます。川崎戸手にも聴く場を必要とする人が出てくると思うのです。
余談ですが、将来、会堂建築にそのような用途の部屋が与えられたらなどと思うのです。
「聴くこと」、それは牧会者だけではなく教会に連なる私を含めた一人一人に意識してもらえたらと願うのです。