切り結ぶ土俵

教区総会を終えた後、私はいつも信仰の違いを痛感する。聖書自体が多様な信仰を内包しているのでそれは必然とも言える。しかし同時に、では信仰とは何か?という問の前でたたずんでしまう。こういった言語活動に虚しさを覚えつつも、全く無意味だと言い捨てることも出来ない。

突き詰めると神観の違いなのかもしれない。神観とは「神に対する人間の考え方、捉え方」である。伝統的には、神とは愛である、義であるというようにそれを定義する。そして定義した神に照らして人間の罪を明らかにする。即ち神とは絶対的且つ究極的な物差しである。やわらかく言い換えれば神は人間が目指す目標であり理想であって、人間はそれに近づき正しくあろうと努める。

これに対して「神は何処でどんな働きをしているのか」という神観である。これは神そのものが何者であるかに関心を置かない。神の働きに着目する。そしてその働きに参加する。故に三位一体は愚の骨頂と化す。

そもそも、信仰が違う、対話が咬み合わないと感じる原因はそこにあると思う。ただ、私はこの両者を比較評価したり、自分の神観は何方であると表明することに関心を持たないように努めている。何故ならそれ自体が両者に白けた距離と咬み合わない虚しさを生んでいるからである。

大切なのはこの両者を切り結ぶ土俵である。切り結ぶとは、噛み合っていないものを上手に繋ぐという意味ではない。「刀を打ち合わせて切り合う」事であり、激しく争う事である。教区総会がスムーズに時間通り終わったと皆が喜んでいる。喜んで良いのか?何も咬み合っていないではないか。虚しい。

主イエスは言う「私が来たのは地上に平和をもたらすためだ、と思ってはならない。平和ではなく、剣をもたらすために来たのだ」

(マタイ10.34)

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