向かうべきもの

日本がアメリカの属州になることの賛否はさておき、発言の趣旨は「ダイナミックな変革」を、「黒人奴隷が大統領に」を事例に用いた表現の問題にある。

発言とは誰が誰に対してと、文脈で判断される。セクハラ発言もそれによってセクハラであったりなかったりする。「朝鮮人」や「北朝鮮」という言葉も同じである。誰が誰にと、文脈なのである。

今回問題視されている発言も言葉足らずは否めないが、キリスト者であり朝鮮人である私には理解の域にある。出来れば「かつて奴隷であり、今なお差別されている黒人が」と表現すべきだったのでしょう。

このような問題発言が問題とされる根本的な問題として、当事者が置き去りになってしまう所にある。例えばそれがセクハラに該当するか否かが重要なのではなく、そこで言葉を受けた女性がどのように傷んのだか?言葉を発した男にどのような無自覚が潜んでいたかにある。セクハラはこれまで表面化されなかった問題を教えてくれる知恵であり示唆である。それによって男は、それまで気付かなかった女性の痛みを知り、男の女性に対する無自覚と傲慢を悟り、よりよい関係を育んでいくものへと成長していくのである。

しかし例えば、「在日韓国人」か「在日朝鮮人」か「在日」か「在日韓国・朝鮮人」か、一番差し障りがないところで「在日コリアン」で行きましょうというのは、非難されたくない側の非難されない為のノウハウである。誰が、何故、その時、その言葉で、どのように痛むのかが「在日コリアン」という差し障りの無い、(避難されたくない側の都合による)決着によって本来の向き合うべきものを逆に遠ざける。「在日コリアン」と表現を改める事を間違いとは言えない。しかしそれは関係を健やかにする根本課題ではない。少なくとも最優先課題ではない。

今日、マイノリティーに対する表現の問題は、マジョリティーが常に避難されない為のノウハウ蓄積に力が注がれ肝心の当事者は置き去られている。すなわち結局、その発言を巡る米国との外交に支障をきたす事に関心が置かれ、少なくとも「奴隷ですよ」という言葉に接した黒人の気持ちを考える余地は爪の垢ほどもない。その言葉足らずな発言から来る自らの不利益解消のために発言者を避難したり議員辞職を迫るのは問題のすり替えと悪用(痛むべき者の痛みの悪用)であって、黒人に虚しさを残すことさえあっても支持は得られないと思う。

ユダヤ人は告白します。「私たちの先祖は滅び行くいちアラム人でした」。私も告白します。「私の先祖は、玄界灘を渡ってきた朝鮮人です」。ユダヤ人がそれを誇りとするように、私もそれを誇りとしています。何故それを誇りとするのか、誇りとせざるを得ないのか。それは過去のこととしてではなく現在の問題として共に向き合って行きたいのです。

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