君への祈り

先週、一人の元プロ野球選手が覚せい剤取締法違反(所持)の容疑で逮捕されました。このような事件の報道やワイドショーの評論に接する度に虚しさを覚えます。

聖書の予言と歴史は常に未来に希望を抱き過去に学びます(反省します)。自動車に例えるなら前進中ハンドルを切る時、後方を確認するようなものです。自己正当化や利益保持、又他者批判そのものを目的とする他者の過去批判は何ら良いものを生み出しません。

先週のヘイト・スピーチに対する非難の声には、ヘイトデモに参加する人々へ「仲良くしようぜ」という未来への呼びかけが混じっていました。ヘイト・スピーチに対する非難は健やかな関係をめざしています。憲法が保証する表現の自由を確保しつつ、ヘイト・スピーチを禁止する境界線は何処にあるのか?そんな疑問を抱える中で「仲良くしようぜ」という呼びかけに接し、その叫びに健やかな関係をめざしているものがあるか否か?そこに見極めがあるのだと感じました。

甲子園の歴史館から彼に関する展示物が撤去されたり、プロ野球の歴史映像からも彼の功績は削除されるとの事です。それは彼に対する社会的制裁以上に、関わりを維持する上での高野連、プロ野球界の不利益を排除することに他なりません。批判や制裁は、健やかな関係の回復をめざす中で真の意味と成果を獲得するのではないでしょうか。

同世代を生きてきた者として、真に悲しい事件でした。しかし頂点を極め、同時にどん底を舐めた者であるが故に悟り得る真実があるでしょう。君の人生は終わっていない。しっかりと償って来て欲しい。そして歴史館に飾られた過去の栄光に胡座をかく希望の星ではなく、十字架を背負った真の希望になることを祈りつつ君の帰りを待っています。頑張れ清原。

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