ヨルダン寮お別れ記念行事に寄せて(2)—何が見えるか—

「何が見えるか?」という問いは、厳密には「其処(そこ)から何が見えるか?」であって、今見えているものは「其処」と分かち難い関係にある。「其処」が変われば見えるものも変わる。見かけ上その関係は「其処」が主体で、見えているものは客体である。

しかしそもそも、そのように「其処」と「見えているもの」を偉そうに分析し論じた私の「其処」とは今何処であったのか?という問題なのである。

私はこの「土手の中」でそれを学びました。話が噛み合わない度に、「其処」が無前提になっていることに気付かされる。否、その多くが自分の立つ「其処」を自覚しておらず、大抵の場合は偉そうに分析し論じた「其処」は今何処なのか?という問題の「其処」に立っていることに無自覚でいる、という問題である。

さて、果たして「其処」は本当に主体なのか?主体にとって「其処」とは「此処(ここ)」である。「此処から何が見えるか?」という問題である。実は「此処」が客体をそのように見ている訳であるが、しかし見えているものが無自覚であった「此処」を私に自覚せしめるとするなら(人はこれを自己相対化という)主客の逆転現象が起こる。その主客の逆転から「此処」の自覚を迫られた瞬間、誠実な人は自らの立ち位置を振り返り、その自覚を迫ったものとの距離を正確に計り知る。一方、弱い人は偉そうに分析し論じる「其処」に逃げ込む。

此処は堤外地である。土手の外である。しかし今我々の此処は「土手の中」である。我々は此処から何が見えたのか?否、何が見えて「此処」を「土手の中」と自覚したのか?

イエスはシリア・フェニキア生まれのギリシャ人の女を犬呼ばわりした(マルコ7.27)。しかし、女は答えて言った。「主よ、しかし、食卓の下の小犬も、子供のパン屑はいただきます。」この女の一言がイエスに自分の「此処」を自覚せしめた。

此処即ち土手の中からこの女の言葉の行間を埋めるなら「あなたからは私が犬に見えたのですね。あなたは、犬は人間様が十分に食べ終わらない内はパンをいただけないと仰りましたが、しかしその食卓から溢れるパン屑はいただいているではないですか?まして私は犬ではない人間です。あなたから見れば犬に見えたのかもしれませんが」。

何処に立つか?それは確かに重要です。しかし事実として何が見えているか?それが今私の立っている「此処」の自覚を迫り、それを経ること無く「何処に立つか?」を云々するのは、偉そうに分析し論じる「其処」に無自覚であることに外ならない。故に「其処」が銀座であろうと、日本人であろうと、男であろうと、また戸手であろうと何処であろうと何であろうと、人は「此処」からしか語り得ないのである。それぞれの「此処」から語るのである。しつこく言い換えれば「エレミヤよ、何が見えるか(エレミヤ1.11)」「アモスよ、何が見えるか(アモス7.8)」。この問いかけに真摯に応えていく外ないのです。

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