ヨルダン寮お別れ記念行事に寄せて(3)—勇気—

 

ヨルダン寮お別れ記念行事として関田寛雄牧師、大倉一郎牧師をお招きし、み言葉に与りました。心より感謝申し上げます。

「この岩の上に教会を」。教会の建てられているその岩は、罪深き弱いペトロ(岩)であり、それは赦されて生きる恵みの岩であり、その岩の上に教会は建てられています。

「宣べ伝えるイエス」。宣べ伝えるべきはイエスの教えではなく、イエスそのものであり、そのイエスとは彼の振る舞いに表れています。

さて、ではその振る舞いとはどのようなものか。この土手の中からその振る舞いを言葉化すれば「彼は罪人のところに入って客となった」(ルカ19.7)の一句に尽きます。

これは「罪人の一人に数えられた」ということです。ここに、私たちは誰と向き合っているのかが問われています。イエスは彼らを外に向かって弁護するのではなく、彼らの友となり自身も罪人の一人に数えられました。ここに真実があり、誰と向き合っているかが表出しています。

土手の外にいる人々に、不法占拠する土手の中の人々を弁護する必要はない、とは言いません。それは必要な営みです。しかしそれは必ずしも土手の中の人と向き合っているとは言えません。厳しく言えば、それは自己正当化です。自己の正当性を土手の中を用いて、土手の外に叫んでいるだけと言われても反論できません。イエスの振る舞いに習うのであれば、土手の中の人々と同じ泥を被ることです。

しかし、人間は罪深く弱い存在です。隣人に寄り添って生きる時、即ちイエスの振る舞いを生きる時、自ずと限界に突き当たります。我々はこの土手の中で、自らの人間としての限界、醜さ、弱さを知りました。しかし、だから撤退ではありません。そもそも教会とはそういう限界や醜さ弱さの上に建てられています。その事を関田牧師は「赦されて生きる」と説教されたと受け止めます。

赦されて生きるとは、「赦されて」ではなく「生きる」にアクセントがあります。それでも「生きよ」ということです。

(因みに「生きる」が脱落し「赦し」が強調される時、教会は力を失い堕落します。これが批判される贖罪論です)

我々の「生きる」とはイエスに従うことです。しかしこんな弱き醜い者が、イエスに従うなど偉そうに言えるでしょか?だから赦しがなければイエスに従うなど恐れ多くて言えるものではないのです。

「赦されて生きる」とは、それでもエエからついて着ないという恵みの招きであります。信仰的にいえば「自分の十字架を背負って従いなさい」という事であり、俗っぽくいえば「恥を晒して着いてきなさい」という事です。

確かにこれは恵みであります。しかしこの大いなる恵みに与るには勇気を伴います。

一欠片の勇気が必要なのです。

故にイエスは最後にこういうのです。

「・・・しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている」(ヨハネ16.33)

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