ヨルダン寮お別れ記念行事に寄せて(1) — 隣人・命の水 —

サマリアでの出来事。イエスは井戸の傍らで、人目を避けて水を汲みに来た女に「水を飲ませてください」と求めた。「ユダヤ人はサマリア人と交際しない・・」(ヨハネ4.9)。この「交際しない」とは「同じ器を用いない」という意味に遡る。即ちこれは単なる交際の有無ではなく、生理的・感情的な敵意を表している。ユダヤ人にとってサマリア人とはそういう存在であった。イエスもユダヤ人であり例外ではない。これはそのユダヤ人イエスが、交際しないサマリアの女に、その女の水がめ(器)で「水を飲ませてください」と求めた、考え難いお話でなのである。

よく聞く話だが、それが誰であろうと苦しみ困窮する人を別け隔てなく助け、隣人になっていく、それが聖書の教えであると。しかしそれは殊更聖書に説かれなくても、人間は敵意を抱く相手にも自分を用いる可能性を持っている。しかし(象徴的に言えば)、人間は同じ器を用いたくない人に「水を飲ませてください」とは言えない。些細な事でも、あいつには頭を下げたくないという類のところに人間は限界を持っている。時として、助け手となるより助けを乞う方が困難なのである。それを成し得るのは限界を超えるものであって、それを信仰(聖霊の導き)と呼んで憚らない。

この物語においては、イエスが女の隣人になったのではない。イエスは助けを乞い、結果的に、イエスの渇いた喉を潤す役目としてこの女がイエスの隣人となった。即ち女は自分を必要とする存在に出会った(イエスによって)。人間は必要とされて関係と自己を回復できる弱い存在である。村人との関係を持たず生きてきた女が、イエスによって関係を与えられ自己を回復した。それは即ち、女は「命の水」を得たのである。そして女はその命の水と共に村人の中に帰って行った。

伝承によれば、川崎戸手伝道所が土手を越えようとした時、そこに分裂と不安が生じた。それは「交際しない」関係の壁を乗り越える信仰が問われた時であったと言える。

教会は土手を越え河原の人々と出会った。しかし土手を超えた教会が河原の人々の隣人になったのではない。そうではなく河原の人々が教会の隣人になったのである。そう言える根拠を示すのに多くの言葉はいらない。ヨルダン寮の礎を築いた先人らから、今この最後の時を荷なう者たちに至る迄全ての信仰が共にそれを告白するのである。河原にいた殆どの人々は街に帰っていった。そして今最後に残された者たちの時を迎えようとしている。

河原の人々が教会の隣人となった。しかし同時に教会はもまた河原の人々の隣人とされた。さまよう者らが土手を越え河原の街に足を踏み入れ(導かれ)、ヨルダン寮の輩(ともがら)に加えられ、河原の人々と出会い、街ではなくこの河原で用いられ関係と自己を回復している。そのように告白しうる時、気付けば、この河原の人々こそが、ヤコブの井戸の傍らで「水を飲ませてください」と求めたイエスに他ならない事に気付き、復活のイエスはガリラヤ(周辺)にいると証しするのである。

そのイエス(河原の人々)から私たちは命の水を得た。私たちもこの命の水と共に次なる約束の地へ導かれて参りましょう。その命の水を分かち合うために。あのサマリアの女のごとく。

(ヨハネ福音書4:1-42)

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です