受難週、早天祈祷会でマルコの受難物語を読みました。マルコはイエスの苦しみを描きながら人間の醜さを明らかにします。
ゲッセマネで恐怖に悶える孤独なイエス。闇夜に紛れて捕らわれるイエス。弟子に見捨てられるイエス。不当な裁判で死刑の判決を受けるイエス。唾を吐きかけられるイエス。ペトロに知らないと言われるイエス。十字架上で罵倒されるイエス。
受難物語を読む時、私たちはイエスの苦しみに着目しますが、その苦しみと重ねあわせて描かれる人間の何と醜きことでしょうか。マルコの受難物語は、人間の醜さに向き合うことを読者に期待しています。しかしその人間とは客観的ではなく、具体的な自分自身です。
神を恐れるとは、人を恐れないことであり、神の正しさとは、自分の醜さと向き合うことであります。そしてその醜さが絶頂に達した時「エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ」とイエスは絶叫しました。
復活の喜びは何処から来るのでしょうか?イエスに追従した弟子らは、イエスを見捨て、自らの醜さを知りました。おそらくその醜さに大声で泣き崩れる者の腸(はらわた)から復活の喜びは溢れ出てくるでしょう。
それは言葉では表現しがたい、「良かった」「救われた」「すみませんでした」という感じのものが、恐れとともに湧き溢れてくるのでしょう。そして内なる声として「生きよ」という招きの声が、希望の輝きを持って聞こえてくるのだと思います。