バビロニアによってエルサレムが完全に占領された時のこと。
今後の進退についてユダの民から予言を求められたエレミヤはバビロンへの投降を告げました。しかし期待に反する予言に彼らはエジプトへ逃亡し、エレミヤも連行されました。そのエジプトでなされた事実上エレミヤ最後の予言が44章です。
エレミヤは、民が予言に逆らいエジプトに逃亡したこと、エジプトで異教の神を礼拝することを理由に、エルサレムへの帰還は適わずエジプトで滅びると審判予言を告げました。
これに対しユダの民はエレミヤに、
- 異教の礼拝は、既にエルサレム神殿からなされていた。
- それをエレミヤが止めさせた事が原因でエルサレムは崩壊した。
- 異教の礼拝は夫も承認済みのことである。(女たちの主張)
と、以上の歪曲した歴史認識と身勝手な理由で自己正当化して反論しました。
エジプトに逃亡したユダの民の言い訳は創世物語の「創造と堕落」を想起させます。
主なる神は罪を犯したアダムに問いました。アダムは、あなたが私に与えた女が私に実を与えたので食べたと答えます。次に神は女に問いました。女も同じくベビに騙されて食べたと答えました。
アダムも女も事実を答えています。しかし自分の罪と向き合っていません。責任転嫁し自己正当化し、更には「あなたが私に与えた女が・・」と創造者さえをも訴えます。
私はこの世で父が最も恐かった。恐れるべき者の前で人間は偽ります。確かに裁きを持って導く旧約の神は本当に恐い。言い訳し、自己正当化するユダの民やアダムと女の気持が私は痛いほど良く分かります。恐らく私という人間は親の愛に育まれた人を羨んでいるのだと思います。これは醜い嫉妬です。
しかし、そんな愚かな私であるからこそ、最早裁きでない、十字架の赦しによって導かれるイエス・キリストの慈しみ深い愛に感謝せざるを得ません。その愛によって生かされている私たちは最早、言い訳や自己正当化する必要ない恵みを生かされています。
しかしその恵みを一度忘れる時、恐怖に怯え、言い訳し自己正当化し、それが転じて人を裁きます。私は何という愚か者でしょうか。恵みを恵みとして生きることの如何に難しきことか。日々新たにその恵みを味わい知る者でなければならない、反省の繰り返しです