選んだ責任

先週、予算総会で新しい役員が選出されました。選ばれた役員はその責任を負わねばなりません。しかしそれに勝るとも劣らない選んだ責任があります。

私は国会議員を選ぶ権利も選ばれる権利もありません。そういう立場から見えるのは選んだ側の無責任さです。その無責任さが日本の政治を三流にしています。極論すればあの総理大臣は有権者の質を象徴しています。彼を避難する前に自らを恥じるべきでしょう。真に戦争に反対し、脱原発を願うならそれを自分の一票で明らかにすれば良いだけです。しかし政治家は選挙前に飴をバラマキ有権者はそれに食いつきます。政治家は知っているのです。有権者の多数は反戦脱原発を唱えながらも、それは決して自分の生活の豊かさに勝るものではないことを。

選挙前の公約に有権者の本音が表出しています。しかしその本音は脇において自身が選んだ与党を罵倒しています。もちろん個人として今の与党に票を投じてない有権者も大勢いるでしょう。しかし民主的多数決による選挙結果の総体として、そういう欺瞞に満ちた姿が(納税義務を果たしながら)選挙権を持たない立場からすると無責任に見えてしまうのです。自分の生活は二の次で原発に頼らず、戦争しない国を望む有権者はやはり極少数なのでしょう。

役員選挙はそれに相応しい人が選ばれます。しかし一方でそれに勝る「自分は役員をしたくない」という本音はないでしょうか?そのような結果と本音の乖離が無責任というものを生み出します。神の国を先取る共同体として、政治家と有権者のそれとは一線を画し、選ばれた責任に勝る、選んだ責任を誠実に果たして参りましょう。

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