他人の責任追求は厳しくとも自分を厳しく問い正せないのが人間であります。
聖書は自分と向き合う書物です。律法学者やファリサイ派の人々が全て悪人であった訳ではありません。そういう読み方は究極的には、イエスを殺しのはユダヤ人という結論を導き出したナチスの聖書解釈に行き着きます。
聖書は、とりわけ福音書は登場人物の誰かを避難する為に書かれたのではなく、読み手自身が自らを振り返るために物語の中で律法学者やファリサイ派に悪役を演じさせたと言っても差し支え無いでしょう。
イエスを殺害した人間の様々な罪(要素)がイエスの敵味方を問わずそこに表出しており、それは読者自身が問われるべき事なのであって読者が誰かを裁くためのものではありません。
人間は常に神の問いの前に立たされています。義人など一人もいません。一皮むけばみな同じであります。醜い自分と向き合うのはしんどい作業です。しかしその訓練を怠らなければ間違いを起こさなという保証は全くありませんが、間違いを起こした時、誰にでも納得のいく説明(反省・謝罪)が出来るものです。
今、彼を避難する者で、それが嫉妬や妬み、はけ口、酒の肴、暇つぶし、あるいは彼が退陣した後の椅子を狙っての事であるなら、明日の我が身を彼にしっかりと見ておくべきでしょう。