善を目指す要求

米共和党の大統領候補指名を受けたトランプ氏のその国益第一主義且つ排他的な施政方針が非難を浴びている。しかし冷静にその内容を分析すると安倍首相の言動と何ら変わらないと感じるのは私だけだろうか。巧みに国民を欺き、公然と嘘をつき、平和憲法を無視し、沖縄に負担を押し付け、原発を推進する安倍首相に比べれば、嘘偽りなく本音を語るトランプ氏の方が有権者に対して誠実であり、その一点において評価できる。

もちろん本音を言っているからといって内容は別である。人間は本音だけで100%生きている訳ではない。自己に内在する悪(自己満足)と、人類史の反省が「善なるものを目指そうとする人間への要求」が併存している(ちょっと違うが「本音と建前」)。本音だからといって悪に開き直ることを「善を目指す要求」は許さない。しかしそれ以上に、悪を覆い隠す為に「善を目指す要求」を利用する事(善を装うこと)は更に許さない。

トランプ氏は候補者として、誠実とは言い過ぎであるがあまり嘘はついていない。彼の施政方針は容認できないが善を装ってはいない。内実は同じでも有権者を欺いていない点において彼は安倍首相より評価できる。誰を選ぶかは有権者の問題。

自己に内在する悪と「善を目指す要求」の狭間で人間の居場所は何処にあるのか?キリスト教会は人間の罪を追求し救いの道を説きそこに人間の居場所を確保した。しかしそれは教会が救いを独占し、居場所というよりはそこに人間を閉じ込め支配した。人間は確かに罪深い存在である。しかしキリスト教会の贖罪によって内在する悪が削除されたり、罪を犯さなくなったり、犯しても無条件免罪にされたりする訳ではない。

人類史は人間の罪を告発し「善を目指す事」を要求する。罪深いものであるが故に「善を目指す要求」に不断に応えていこうとする終わりなき歩みこそが、人間が人間として存在し得る居場所ではないだろうか。その居場所を恵みとして喜び生きる時、信仰者ははじめて「赦されている」と告白することが許されるのである。

 

「では、どういうことになるのか。律法は罪であろうか。決してそうではない。しかし、律法によらなければ、わたしは罪を知らなかったでしょう。」

(ローマの信徒への手紙 7:7)

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です