罪を犯した人間、これを刑法でいう所の犯罪者だとするなら、それは裁かれて当然であり彼は罪を償うべきでしょう。これは社会性を持った人間相互の関係にとって致し方のないことです。
一方、聖書は「裁くな」と教えます。しかし、この裁くなとは、犯罪者を範疇に入れていないし、裁くという行為そのものの中止を目的にしているのではありません。
神は絶対者です。しかしこれを証明することは出来ません。人間は神を知りません。神が絶対者であるとは、人間はすべからく不完全であるという事の言い換えです。「神は絶対者だから素晴らしですね〜、その神に栄光あれ」という事ではなくて、「義人はいない一人もいない」という本質を「絶対者なる神」として表現しています。
しがって裁くなとは、光の下に我が身を晒すことの出来ない人間(自分)が、自らの義を立てるために、他人様を光のもとに引きずり出してその罪を公にし「自分はこのような人間ではない」と口にしないまでも、そう言わんばかりに自分の正しさをなんとなく遠回しに立証しようとするそんな行為はやめなさいという事です。注意すべきは「所詮お互い罪人だから裁き合うのは止めましょう」ではなく、自分の正しさを示すために他人様を利用するな、というのが聖書の言わんとする「裁くな」の本質です。もっとハッキリ言えば、有りもしない自分の義を立てるなというのが「裁くな」という事です。
兄弟に愛を持って注意してあげることは大切です。しかし自分は闇に身を潜めて、他人を光の下に引きずり出す事。これは真に破廉恥な行為であります。しかし私たちの生きる人間社会にはこれが蔓延しています。そして気付かぬ内に、裁いていないつもりでも誰もが皆裁いてしまっています。何よりこう言っている私自身が先ずもって。
これに対抗する手段は唯一です。「隣人を自分のように愛しなさい」。故に愛は律法を全うするのです。