事件の神学

「民衆神学」を提唱した安柄茂(アンビョンム)氏は民衆神学を「事件の神学」と呼びました。我々が無自覚に持つ信仰は西洋神学の影響下にあり、それは御言葉の神学です。即ちイエスの言葉の意味を正しく理解することに集中しています。それ自体は間違いではありませんが、西洋神学は言葉の背景(物語・出来事)を、その言葉を理解するための補助的資料に位置づけています。これに対して安柄茂氏は言葉よりも、そこで起った出来事(事件)が重要であると異を唱えました。

その理由は、言葉の理解はその理解に留まり、事件に着目する時、言葉は日常と連結するからです。そして安柄茂氏は、神もイエスも聖霊も人格としてではなく、事件として捉え、彼はイエスをイエス事件と呼びました。

イエスとは誰かではなく、彼によって何が起こったか?その事件こそが神の御心であり、そうであるならば、イエス事件は今日も起こっており、事件の中に且つ事件としてイエスは今日復活しているのです。それらを一言で表現した時、安柄茂氏は「イエスが民衆であり、民衆がイエス」だと申しました。

反戦平和を熱く訴える8月最後の主日となりましたが、我々は平和に対して理解の域を越えようとしていなかった反省に立ちたいと思います。

桜本でのヘイトデモで、民衆が腕を絡ませ地べたに這いつくばり、その通行を阻止しました。デモ隊を護衛する警備隊は彼らに通告しました「道路交通法違反です」。

法は順守すべきものです。しかしその議論の先に神の国はありません。平和を求めるなら、平和が何であるか?の理解に留まらず、その平和の実現に歩みましょう。信仰の言葉で言い換えるなら、主の十字架のみ跡にお従いしましょう。安柄茂氏の言葉にあやかるならば、イエス事件に参加しましょう。それが平和を求めるという言葉の意味であると信じます。あなたは、そして私は、平和を求めているでしょうか?

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