人間の拒否と神の国

 

マタイ福音書22章に天の国(神の国)の譬え話があります。それは王が王子のために婚宴を催すものに似ていると記されています。この譬え話はマタイの編集によって分かり難くなっていますが、その原型はいたってシンプルなものであったと考えられます。

王は婚宴の準備が整い家来(予言者)を遣わして招いていた客(イスラエル)を呼びに行かせたが誰も来なかった。次に別の家来(イエス)にお品書きを添えて遣わしたが、人々は家来を無視したあげく殺してしまった。最後に王は予定していた客にではなく町の大通りいる見かけた人を誰彼なし(異邦人)に招き婚宴の席は客で一杯になったというものです。この譬え話の言わんとする所は、人間の拒否が増すことに反比例してより寛大になる様でありそれが神の国だという事です。

人間は拒否に対しては拒否を、攻撃に対しては攻撃で対峙します。そこには自らの言行を他者の責任(拒否・攻撃)にする人間の弱さや開き直り、そして自己正当化が漂っています。即ち「悪いのは私ではない」という場所に人間は安住しています。そしてその安住から踏み出すことは相当難しいものです。もしそれを可能にするものがあるとするなら、やはり「愛」という一句に尽きるでしょう。否、愛が踏み出させるのはなく、踏み出す事自体が愛であり、踏み出した時、そこに愛があります。故に愛する事は相当難しく、愛なき己を認めざるを得ません。

しかし神の国(主の平和)を希求する者は改めて聖書の言葉に耳を傾けたい。拒否と攻撃が増す時、それに反して自らの心を開いていく所に真の希望があり、その先に主の平和があることを。

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