どうでも良い話し

ファリサイ派とヘロデ派の人々は、イエスに「皇帝に税金を納めるのは妥当か」と問いました。

ローマ神である皇帝への納税を認めればモーセの十戒に違反します。否定すればローマへの反逆罪となります。これはどう答えてもイエスには不利な問いです。しかしイエスはデナリオン銀貨を見せて「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に」と答えました。

デナリオン銀貨はローマの貨幣で、そこには皇帝ティベリウスとその母が神の座に座る像の肖像が刻まれています。即ちデナリオン銀貨自体が偶像神であり、それはエルサレム神殿内で流通しており、厳密にはそれ自体が律法違反でした。(奉納物の購入、貨幣の両替等)

「皇帝のものは皇帝に、神のものは神に」の意味は正確には不明で神学者の間でも意見の一致を見ていません。おそらくイエスがデナリオン銀貨を用いて問いに答えたのは、ローマへの納税の是非を問う以前にデナリオン銀貨を用いている事自体が(しかも神殿で)律法違反だと皮肉っており、それを度外視して云々する議論は無意味だと言いたいのでしょう。

イエスによればデナリオン銀貨は貨幣であり同時に偶像です。そこで偶像は皇帝に返してやれ、献金は神に捧げよ、それが筋であるということです。ところでこの貨幣であり偶像であるこのデナリオン銀貨で、どうやってそれをしますか?と問い返しているのです。結論に飛びますが、ようするにイエスは「そんなのどうでも良い話だよ」と言い放ったのが「皇帝のものは皇帝に・・・」だと思います。

宗教界には、このようなどうでも良い話が蔓延しています。律法上それは妥当か否か?この観点から導かれる議論は凡そどうでも良い話なのです。安息日は人のために定められたとするイエスによれば、律法は弱き民のために存在します。それが、律法自身が矛盾を抱えないために人がどう在るべきかとする議論は、人が生きる現場を見失わせます。即ち宗教界に蔓延するどうでも良い話は、神との出会いを阻害するのです。(未受洗者への配餐は教憲教規に違反するか否か?)

惑わされないようにしましょう。惑わされないためには、常に、心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして主なる神を愛し、隣人を自分のように愛して参りましょう。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です