主権者は誰か?

ナザレ人イエスの主張は単純であったと思います。それは弱者を大切にする関係です。イエスはそれを神の国と呼びました。

恐らくイエスは、そもそも強者と弱者が存在すること自体を問題とはしていません。私たちがイメージする神の国を「強者と弱者」から捉えるとそれは皆が平等の世界です。しかし、イエスにそのような考えはなかったと思います。何故、強者と弱者が存在するのか?という問いは「何故彼は生まれつき目が見えないのか?」という問いと同じです。

強者と弱者を富者と貧者に置き換えた場合、皆平等というのは社会主義的な体制を指しており、この背後にあるのは経済的な権利の主張です。私はこれ自体を否定しませんが、イエスは神の国をそのようなものでイメージしていたとは思いません。

イエスの言動の背後にあったもの、それは単純に弱者を大切にする関係です。これは人類にとって大きな意識変革を要求します。弱者を大切にする関係とは、強者が弱者を庇護する事を指しているのではなく、弱者中心に物事を思考し関係を育んでいくという事です。例えるならば、封建主義から民主主義に転換したように、弱者が主権者となる発想です。そこに立ってみるとイエスの言動は凡そ辻褄が合います。

異なる二人の人が相対する時、厳密にそこには平等は存在しません。必ず一方が強く、一方が弱いのです。そしてこの世は強者が主権を持ち、その主権が担保される範囲で弱者を庇護します。これに対して神の国は弱者が主権を持ち、強者はこれに仕えるのです。

故にイエスは申します。「子どもたちをわたしのところに来させなさい。妨げてはならない。神の国はこのような者たちのものである。」(マルコ10.14)

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