聞くということ

先週の修養会は昨年に続いてヨルダン寮で実施しました。バーベキューの後、各自の思いを語る時間を持ちましたが、牧師は発言しないと自分勝手に宣言しそれに臨みました。私は他人よりも発言の多い人間であることを認めます。しかし一方で他人の話を聞く力を持っていると自負しています。聞くというのは、正しく理解する事だと思います。しかし先週の修養会で「聞く」という事の知らずしていた一面を垣間見たような気がしたのです。

最近教区の関係で、ある意味致し方なくハラスメントの本を読み漁っています。まだ学びは浅いですが、行き着く所この問題は「こちらの意図に関係なく」「相手が如何に不快であったか、苦しんだか」という点がやはり焦点のようです。その事件がセクハラであるかパワハラであるか、それはそれで複雑なのですが、それ以上に難しいのはその事件の問題解決(和解・調停)です。加害者は「こちらの意図」を語り、被害者は「如何に不快であり苦しんだ」かを語ります。ようするに何処までいっても話が噛み合わないのです。この問題可決の第一歩は加害者とされる人がその「意図」を放棄する所からしか始まりません。しかしこれはとてつもない勇気を要求されます。しかしその「意図」に固執する限り「聞けない」のです。耳に入ってこないのです。故に理解できないのです。

修養会で自分の思いや考えを語る機会を(積極的且つ建設的な意味で)放棄した時、それを語る手立てを失いストレスを溜めながらも、あの共に過ごした時間が、「聞く」という作業が単に理解する事に留まらない、対話というものを成立させる為に欠かせない要素であり、大切な役割を担っているように感じました。

こんな風に言葉にしてしまうと「そんなん当たり前の事やん」となるのですが、何と申しますか不十分ですが敢えて言い切るならば、対話とは語りまた聞くことです。しかし人は聞くには聞きそれを理解しますが、語る時は(敢えて言うなら)自分の「意図」を語っているのではないでしょうか。「意図」を語る限り、聞いているつもりでも、それは本当の意味で聞いているとは言い難く、その意味で私は聞けておらず理解していなかったのではと(脅えつつ)思い始めているということです。

ハラスメントの学びと先週の修養会での経験が、私に「聞く」本質について一石を投じてくれました。学びを継続します。

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