世界聖餐日

 

「世界聖餐日は、1946年に、WCCの前身である世界基督教連合会の呼びかけによって始められました。第二次世界大戦の深い傷跡の後、世界中の教会が聖餐をとおしてキリストにある交わりを確かめ、全教会の一致を求めて制定されました。」

(NCC公式ホームページより)

 

第二次大戦後、世界はソビエトとアメリカを筆頭に各陣営に別れ核兵器開発を急ぎ、その後、半世紀近くつづく東西冷戦が始まりました。即ち戦争の傷跡が対立を生みました。世界聖餐日とはこの対立を背景にしており故に一致を求めるものである事を先ず覚えたいと思います。

一致を求める背景には(否その必然として)対立が存在します。大戦後の情勢に鑑みるならばその対立は共産主義と資本主義の対立です。しかしそれは見かけ上の事であり必ずしも主義の違いが対立を生んだのではありません。対立は既に存在しており各陣営がその陣営の枠組みとして主義を盾にしただけです。

我々は違いを率直に認め合おうとしてきました。しかし、もしかしたら違いが対立を生んでいるのではなく既に存在する対立が違いを盾(言い訳)にしているのではないでしょうか。

主の定めて下さった聖餐は一致を求めるものでした。世界聖餐日には、お互いの国同士が対立していてもキリスト教会が聖餐を通じて一つとなり和解と平和の架け橋とならんとする願いが込められていたと思います。

今日、私どもの日本基督教団はその聖餐式の守り方の違いで対立しています。和解を求める聖餐式で対立しているのです。しかしその対立の正体(本質)は「違い」ではないとわたしは思います。

彼らは好んで東側に、そして西側についたのでしょうか?実は米ソが盾として設けた主義を選択せざるを得ない状況下に国々は置かれていました。そしてそれは今日の教団内の対立も同じ構造です。

人間は対立の理由として違いを盾にします。違いが対立を生んでいるのではなくそれは言い訳にすぎません。ヨハネ福音書に言わせればそれは自己義認(自己正当化)の道具に過ぎないのです。本質はもっとも単純で、それは人間一人一人のエゴではないでしょうか。その自らのエゴを闇で覆い隠し、敵の違いを光の下に晒して自分の有りもしない義を立てているという事です。

本日は世界聖餐日です。先人たちが定めたその原点に立ち返り、自らの足元を見つめながら今日の聖餐式を共に守りましょう。

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