毎週金曜日は、YMCAの講義前に近隣のファミレスで朝食を取っています。安価でしかもドリンクおかわり自由が気に入ってます。毎週利用するので固定客の顔も覚えてきました。その日、講義を終えて再びそのファミレスでランチを食べました。
確かに彼は今朝もそこに居ました。テーブにそのまま残されているトーストとゆで卵のモーニングセット(299円)が何よりの証拠。作業服姿で真っ黒に日焼けした彼は頭を抱え、黙って考え込んでいます。こう場面に出くわすと、人は誰でも自分の無力を痛感するのではないでしょうか。彼は今日、仕事にあぶれたのでしょう。
説教でスラスラと講釈を垂れることは出来ても、今まさにこの時というその時に、隣席に座る彼にかけてあげる言葉ひとつ出てこない。言葉とは何だろう?ここで彼にかけてあげる言葉ひとつ持たない私が説教壇で語っている言葉とは本当に言葉なのだろうか?
「何かお困りですか?お金を貸してください」例えばそんなやり取りが私の脳裏を無意識に巡っているのでしょう。だから言葉が出てこない。言葉とは何なのだろう?まさにそこで語らねばならない時に語れずして、他で語っている言葉とは、何なのだろう。虚しい限り、同時に己と己の言葉の偽善を思い知らされる。
やはり言葉とは肉体(実体)を伴わなければならないのでしょう。神の言葉がイエスによって受肉したように。それにしても、彼が朝からその場に居続けることに文句一つ言わないファミレスに頭が下がります。教会とは斯くあるべきではないでしょうか。
「疲れたもの、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませて上げよう。」(マタイ11章28節)