先週、月に一度のエレミヤ書の学びが52章をもって終わりました。(第1回 2012/2/16)
エレミヤ書は、預言者エレミヤの苦難と共にその預言が語られています。預言者とは自ら語りたい事ではなく、神から預かった言葉を語るのがその職務です。故に自国民を裁く審判預言等は語るに厳しく、特にエレミヤの場合は、敵国バビロンが神の使いとして語られ速やかな降伏を促した故に同胞から激しい迫害を受けました。
預言者としてのエレミヤの生涯は苦難そのものでした。しかし最終章52章において、エルサレム神殿の崩壊、バビロン捕囚の史実を伝えることをもって預言の成就を伝えています。エレミヤの預言は成就したのです。しかしエレミヤ自身の末路について、聖書は特別な関心を示していません。何故でしょうか?私は知りたいです。「私は若者に過ぎませんから」とはじめの召命を拒み、迫害を受け、幾度となく預言者の務めを投げ出し、しかしその度に神への信頼を再確認しながら預言を語り通した、あの預言者エレミヤの気持ちを、思いを。
預言書はその預言の成就・不成就が始めであり終わりであって、それを語った預言者自身については真に冷淡であります。ここに聖書というものの基本的な姿勢・態度が表出しています。それは、あくまで主人公は神であり、その内容は神による救済の歴史です。登場人物は全て部分に過ぎません。部分は部分だけで意味を持ちえず、救済史の中に位置づけて全体を構成する部分としての役割を果たします。エレミヤという預言者が何であったのか?それは救済史の中でしか意味を持ちえないのです。
現代を生きる私たちキリスト者も又然り。神の救済史に参与し、その部分として用いられる事を喜びと致しましょう。さすればその時、聖書自身が無関心であった預言者エレミヤの気持ちを味わえるかもしれません。