愛による奉仕

前週の一週一言を以下のように結びました。

希望は関係の中にあります。他者との関係。それは利害の関係ではなく共生の関係です。共生の関係とは、(互いにではなく)私をあなたの為に用いる関係です。そこにこそ、生きていること、人と関わること、そんなシンプルなことのなかに、喜びを感じられる瞬間が(実は)沢山あるのだと信じます。

さてイエスはその関係を弟子の足を洗うことで示されました。(ヨハネ福音書13.1-11)

ペトロは拒否しますが、それに対してイエスは「もしわたしがあなたを洗わないなら、あなたはわたしと何のかかわりもないことになる」と返しました。ここにイエスのかかわり、関係の内実が伺えます。足を洗うとは、身分低き者の仕事であり、そこに洗う者と洗われる者の関係があります。そういったこの世的な身分や関係を越えて底辺から仕えていく所にかかわりというものが有り、そのような関係にこそ希望があるという事です。

しかし人間というのは理屈で分かってもいざその時には感情やつまらぬプライドが邪魔をするものです。されど神が人となり人の足を洗われたとする究極的奉仕に対する信仰はその感情なりプライドを凌駕する可能性を少なからず持っています。

信仰とはまさにその時その瞬間で機能させる一面を持っているようです。イエスはどんな思いで無理解な弟子の足を洗われたのでしょうか。それは単なるパフォーマンスではなく心の底から弟子を愛しておられたのでしょう。愛が究極的奉仕を実現させ、そこに真の関係が生まれ、その関係の中にこそ希望があるのだと改めて信じて参りたいと思います。

「さて過越祭の前のことである。イエスは、この世から父のもとへ移るご自分の時が来たことを悟り、世にいる弟子たちを愛して、この上なく愛し抜かれた。」(ヨハネ福音書13.1)

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