「遠い所、近い所」とは単に空間的な距離ではありません。
「先ずは身近な所から」「足元の問題から」等と申しますが、実はそこが一番難しいのかも知れません。仮に「国際平和会議」なるものがあって、その参加資格を以下のように定めた場合、何人参加できるでしょうか?
「妻に対し、夫に対し、親に対し、姉妹兄弟に対し、我が子に対し、キリスト者であるなら教会に集う信徒に対し、その何れも無くば隣家の人に対し、自分の主張は置いといて、謙虚に、相手の話を良く聞き、理解に努め、和解と平和のために為に自分を用いていく人」
例えば、海外で尊いボランティア活動をしている方々が大勢いますが、私はそれが特別大変な事だとは思いません。技術的困難さはありますが、寧ろそれは関わりやすいのです。
身近な問題が難しいのは、自分が問われるからです。遠い所の方が、自分は問われにくく、そこでは自分を用いやすく、やり甲斐も得やすいのです。端的に言い換えれば、問われる側よりは問う側で働く方が働きやすくやり甲斐も分かりやすいという話です。
川崎戸手教会にとって、そこに集う信徒にとって身近な足元の問題とは何でしょうか?今私はその問の前に立っています。
教団・教区の働きは各個教会の宣教と分かち難い関係にあって誰かがこれを担わなければなりません。私はこの二年間、宣教部委員長、教区副議長として奉仕して参りました。時には身体に鞭打ち胃を痛めながらの二年間でした。しかしやはりそれは私の身近な問題に比べれば関わりやすく、やり甲斐なるものを確認しやすいものでありました。だからといって無意味且つどうでも良い事ではありません。
しかし厳しく批判すれば、かつて日本で国際化が騒がれる中、李仁夏牧師が内なる国際化を訴えたように、即ち国内にも大勢外国人が居るではないか、その外国人と仲良くしないで何故海外なのかという、あの批判の前に我が身を置くならば、特にこの二年間は、私は私自身が問われる身近な問題から遠ざかる言い訳として、隠れ蓑としての教区の働きであったと指摘されても反論は出来ません。
「先ずは身近なところから」とは申しません、何故ならそこは一番難しい所だから。しかしそれを避けて、見て見ぬ振りをして遠い所でどれだけ汗を流しても、それらは砂上の楼閣であり、やがて足元は崩れ、その崩れ方はひどい事でしょう。
以上が私の次年度に向けた決意の理由でございます。