不幸

幸福論は種々ありますが、聖書は不幸について語る箇所があります。(マタイ23.13以下)

これは専ら律法学者やファリサイ派の人々に向けられた批判ですが、その内実は、元来真理を解き明かすべき者が、他者の批判や攻撃に専念している事を指して不幸とよんでおり、宗教者はよくよく、これに注意せねばなりません。

真理は論証せねばなりません。しかしその方法として他を論破することで、あたかも我に真理ありという方法に傾き過ぎると不幸に陥るのでしょう。

李成桂(イ・ソンゲ、朝鮮李王朝初代王)の助言者に無学大使と呼ばれる僧侶がおりました。無学とは最早学ぶことが何もないという意味です、李成桂は一度で良いから僧侶を驚かせたいと思い、「御坊様のお顔は豚のようです」と申しました。すると僧侶は大笑いして「王様のお顔は仏様のようです」と返しました。仏様と言われて気分を良くした李成桂ではありますが、豚と言われて笑った僧侶の真意を確かめるべく「心ではお怒りになっていたのでは?」と尋ねました。すると僧侶は「いいえ」と答えまた。本当ですか?と念を押すと、僧侶はまた大笑いして最後に一言申しました。「豚の眼には豚だけが見え、仏の眼には仏だけが見えるものです」。

真理を追求する者は、厳しい批判の目を養わなければなりません。しかしそだけに囚われると僅かな良心を見落とします。そしていつの間にか他者に見える偽りは己を映し出しており、それに気付くことが出来ません。それは人間として真に不幸な事です。

真理を求めるものとして、僅かな良心を見落とさない仏の目を持ちたいものです。

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