しゅうとめがルツに、「今日は一体どこで落ち穂を拾い集めたのですか。どこで働いたのですか。あなたに目をかけて下さった方に祝福がありますように」(ルツ2.19)
ルツが持ち帰った沢山の大麦を見て、ナオミはボアズに祝福を祈りました。
旧約の場合、祝福とは「救済に満ちた力を付与する」という意味です。
代表例(創12.2-3)
「わたしはあなたを大いなる国民にし、あなたを祝福し、あなたの名を高める。祝福の源となるように。あなたを祝福する人をわたしは祝福し、あなたを呪うものをわたしは呪う。地上の氏族はすべて、あなたによって祝福に入る。」
これは神がアブラム(後のアブラハム)を人類救済のために召し出した一節です。
即ち、祝福とは「神による救済の器としてその力を与える」ことです。
私たちは祈りの中で、隣人の祝福を祈ります。しかし祝福とは単にその人の平安や恵みの付与を願うものではなく、その人が益々神の救済の器として用いられるように願うことであり、そのように用いられることを恵みとする考え方です。
ナオミはボアズの厚意に対して神が、ボアズに益々救済に満ちた力を与えますようにと願いました。この旧約の民の祝福に対する考え方用い方に、常に神の救済史の実現を願う方向性が見えます。彼らにとって重要なのは、神の救いの歴史が前進することでした。またそこから今日、私たちの祝福を願う祈りについて反省を求められます。「神の祝福があるように」という祈りは、単にその人が神によって恵まれ豊かになることを願うのではなく、神がこの人を平和の為に益々用いて下さいますようにという祈りであり、そのように用いられることが何より恵みとする生き方と言えるのではないでしょうか。
隣人の祝福を祈る時、ナオミの祈りを憶えたいと思います。