聖霊降臨日(ペンテコステ)の朝を迎えました。ペンテコステとはキリストの復活後、使徒たちに神からの聖霊が降った事件ですが、それは同時にキリスト教会の宣教の始まりを意味します。聖霊を受けた使徒たちは多言語でキリストを証し始めました。これは福音が民族宗教の枠を越えていく様を象徴しています。
使徒言行録によれば、エルサレムには外国で生まれ育ったユダヤ人が住んでいました(使2.5)。今日に例えるならば日本で生まれた在日が、母国に帰って暮らすようなものです。そこには、拙い韓国語を話しながらも地元生まれの韓国人から格下の韓国人と侮られないように必死に努力する姿(それはある意味の同化)が見えます。在日とは日本人でもなければ韓国・朝鮮人でもない存在であり、どこに行っても同化という引力が彼らを捉えて放しません。自分らしさを自由に落ち着いて育む環境を持っていません。常に国籍や民族との対立軸から自由になれず、その線上である者は同化しながら、またある者は抵抗しながら自己形成します。
日本で生まれた彼らにとって母語は日本語であり、在日とは日本語を話す朝鮮人です。
そんな彼らが、韓国の地で、日本語で「韓国で生まれようが、日本で生まれようが、同じ人間には変わりないんだよ」という言葉に癒されるような経験、それが「自分の故郷の言葉で使徒たちが話しているのを聞いて、あっけにとられてしまった(使2.6b)」であります。それはまさに縛られていたその線上から解き放たれた瞬間です。
ペンテコステとはキリスト教会の宣教の始まりですが、その本質は解放であり、その解放の瞬間、自らを拘束していた存在を相対化します。しかるに歴史的にペンテコストとは、聖霊降臨のあの事件を指していますが、信仰者にとって毎日がペンテコステであるといえるでしょう。我々は常に解放され(あっけにとられ)、その度に自己相対化を繰り返すのです。その不断の歩みの先に、被造物はすべからく相対化され、絶対者なる神(真理)の前に、一つとされる(違いを尊重し合う)神の国の到来を待ち望みましょう。