キリストの平和

反戦平和を求め考える8月、最後の主日を迎えました。「ローマの平和」に象徴されるように、平和とは所詮、属格の平和に過ぎません。即ち、それは誰かの平和であり、その平和は誰かの犠牲の上あって、平和はその犠牲者を支配します。

私たちは礼拝の中で平和の挨拶を交わします。そしてその平和は「主の平和」です。これも広義の意味では属格の平和です。直接的に「主の平和」という言葉は聖書の中に見当たりませんが、その意図を表した言葉としてはパウロの祝福の祈りの中に数多く見られます。

「主イエス·キリストからの恵みと平和が、あなたがたにあるように。」(ロマ1.7)

更に唯一「キリストの平和」という言葉がコロサイ書に存在します。

「また、キリストの平和があなたがたの心を支配するようにしなさい。」(コロサイ3.15)

属格の平和という視点から以上の御言葉が示唆するものは、「主の平和」とは主イエス・キリストの犠牲の上にあります。しかしこの世的な属格の平和との相違点は、その平和は犠牲者ではなく、平和を享受する我々自身を支配するのです。

あらゆる人間の悪が主イエスを十字架に架けました。主は犠牲者となられたのです。その犠牲は人間の拭い去ることの出来ない根源的な悪を明らかにしました。(人間自身はこれを人間の愚かさと呼ぶのでしょう)

「主の平和」は、この世の力が弱者を支配するものではなく、犠牲になった者が、力ある者を支配する関係です。しかし如何にして犠牲者が力ある者を支配出来るのでしょうか?それは今平和を享受する者らが、その犠牲を強いてしまっている人々に仕えることによって希望の道を拓きます。「主の平和」とは完成された状態を指す言葉ではなく、その支配が人間自身を平和に向かって歩ませる力であり希望であります。

主の十字架(犠牲)を無駄にすることなく、キリストの平和が私たちの心の隅々まで行き渡りますように。支配されますように。

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