否、そして然り

現在、神奈川教区の「多民族共生をめざす小委員会」はかつて「民族差別問題小委員会」という名称でした。これは消極的より積極的なネーミングを選んだ結果です。教区社会委員会の反戦平和デモのシュプレヒコールと言えば「米軍基地は沖縄から出て行け、オスプレイはいらないぞ」等ですが、市民グループのデモでは、積極的に平和を求める楽しい歌を唄いながの行進を見かけます。近年はネガティブキャンペーンより、求める姿を積極的肯定的に表現する形態に移行しているように感じます。例えば「原発反対」より「原発のない社会をめざそう」の方が賛同を得やすいとするのがその理由のようです。

先週はアメリカ南部での事件を巡って白人至上主義に対する米大統領の発言が非難を浴びています。それは明確な「否」が無かったとする非難でした。私は近年に見る積極的な表現形態を支持しています。しかし一方でヒューマニズム(人道主義)の成長過程を見る時、人間は明らかに失敗から「否」を学びその成長を遂げてきたと言えるのでは無いでしょうか?確かに「否」の一点張りには具体的な将来像が見えず、時に疲れを覚えます。故に積極的な表現が求められてきた訳ですが、先週の米大統領の発言に対する米国内の反応から感じるのは、それでも人間として越えてはならない一線に対する「否」を明確にすることの重要性でした。

モーセの十戒(出エジプト記20.3-17)は、前半(1-4)は神と人の関係、後半(5-10)は人間相互に関する戒めです。しかし別の見方をしますと四戒(安息日の厳守)五戒(父母を敬え)の二つは肯定的な遵守令で、それ以外は全て禁止令です。即ち十戒は禁止令が基礎でそこに神と人、人と人の関係に一つづつ肯定的遵守令を置いています。

禁止令といえば、我が子に「◯◯しては駄目」というと苦い顔をされるので最近は出来るだけ「◯◯しよう」を使っています。しかし然りというものは否を経てあるのであって、方法論として積極性を全面に出すのは賛成しますが、その積極性は如何なる「否」を土台としているのか、そこが肝心要のように思うのです。

「人間は人種に優劣を置いてはならない」「戦争反対」「原発反対」この自明の「否」がなければ、即ち明確な「否」という土台がなければ、その上で語られる何とか第一主義とか、あれこれファーストなどと言ってみた所で、全て砂上の楼閣に過ぎません。「何をやります」という政治家の美味しい公約に釣られがちですが、その前に、越えてはならぬ一線、明確な「否」を先ず聞かせてもらうではありませんか。そして同じ問いを自分自身にも問いただした上で、残された8月、反戦平和を叫んで参りましょう。

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