昨日(9/9)、統合失調症に悩む方々の集いに招かれ礼拝を守りました。病に苦しむ方々を前にお話するのはやはり難しいです。
礼拝後の分かち合いで一人の男性が、二人のハリウッド俳優の名前を上げ、彼らは統合失調症であると話されました。私はその話の主旨を尋ねた所、彼は、統合失調症を病んでいても社会で活躍している事例がある事を言いたかったと話されました。
パウロは弱さを克服するのはなく「弱い故に強い」事を主張します。即ち「弱いけど頑張ろーね」ではなく「その弱さこそが強さ」とする十字架の神学であります。これは被差別下に置かれた同性愛者や被差別部落民、在日朝鮮人等にとっては「ありのままで良い」という真に強い励ましです。世が否定する自分を神は肯定し、自分自身も肯定するのです。そこに救いがあります。
しかし以前、ホームレスの支援団体に招かれて講演した時にも同質の事を問われましたが、ホームレス状態や病に伏せている事自体は、やはり肯定し難いのです。出来ればその状態から脱したいし脱することが望ましいのであって、いわゆる「ありのままで良い」では解決し難い苦しみを抱えています。
私は彼に応答する言葉が見つからず、自問自答の独り言に陥ってしまいました。
「薬で精神をコントロールする状況下にあって、薬から自由になれない、適うならば治癒されたいけれども、おそらく不可能と諦めつつも、その病と共に生きて行かざるを得ない中で、聖書のメッセージも希望であるが、しかし統合失調を抱えながらも大スターとして活躍するその俳優たちも又希望だということなのか・・・。」
彼は私の独り言に一言「そういうことだ」と返してくれました。
聖書は万能ではない。知っているつもりでしたが、それは、聖書は間違った事も書いてあるという点で知っておりました。自分の不勉強を棚上げするなら、しかし現実の社会と人間関係でやはり機能し得ない領域が聖書にあるのではないでしょうか。そういう意味でやはり聖書は万能ではないのです。聖書の字面から全ての解答を導き出すのは不可能であります。そういう無理な作業は人間を否定するだけで返って人間を苦しめるのです。
聖書は万能ではない、その事を認める時、私たちは現実の世界に聖書の光を照らすように同じく、聖書にも人間が苦しみ生きる現実という光を照らして行かねばならないのです。
即ちそれが聖書を読むという事ではなく、聖書と対話するという事です。聖書の字面を読むのではなく、ヤコブが神と格闘した如く(創32.23~)、聖書と対話する時はじめて、聖書はその者に何かを語ってくれるのでしょう。