「ヨブ、益なくして神を恐れんや」 ヨブ記(2) 1.6-12

それはサタンから持ちかけた議論ではなく、先に神がサタンに対してヨブの正しさを確認したところに始まります。
「わが僕ヨブを思い見しことありや。地の上にかくの如き者なし。非の打ち所なく、高潔にして、神を畏れ、悪より遠ざかれるものなり」
これは、義人は神を畏れる正しきものであり、裏を返せば、われ(神)を拝するものはかくの如き義人であり、やかましくいえば義人が拝するわれ(神)は義なる神であると。
その神にこのサタンはもの申します。然り、義人とは神を畏れ正しく生きるもの。しかし果たして何ゆえヨブは神を畏れ正しく生きるのか?それはヨブが義人である帰結なのか?否、「ヨブ、益なくして神を恐れんや。」その見返りあってこそヨブは神を畏れ、且つ恵まれている限りにおいて正しき者ではないか。真の義人とはその益と無縁であり、たとえ死の影の谷間を歩まんとも神を畏れ正しく生きるものだ。ならばヨブの益(財)を没収しそれを検証しましょう。必ずや「この人、汝の顔に向かいて汝を呪わん」
ヨブは聖書を代表する義人ではありません。むしろそれはイエスが非難した金持ちの青年であり、使徒パウロが「義人はいない、ひとりもいない」という時に想定している義人を自称する者らです。しかしヨブ記の時代にあってヨブは明らかに義人でありその代表です。そのヨブをわが僕と絶賛するこの神に、この時代のこのサタンがもの申しました。
しかしそれにしてもこのサタンの問いは、人間が向き合いたくない己の本心に土足で踏み込んできます。そしてその問いは神仏を信仰する者らに「あなたは何故神を信じるのか?利益を求めているのか?なるほど利益とはいわないが、ささやかな幸福というか。ならばその幸福とは具体的に何か?そしてその幸福が得られないなら神を信じることを辞めるのか?」
著者はこの序論で、読者に対し先ずその問いに向き合い考えることを要求しています。その準備なくして、後の複雑な議論に参加することは許されていません。後の議論は覗き見してしたり、まして批評してはならない。あなたも準備して議論に参加しないさいと呼びかけているのです。

※このサタン(The Satan)はいわゆる悪魔ではない。それは「地上を巡回して調査を行い、神に不都合なことを報告する神的な検察官であり、厳密に言うと(宮廷における)『論敵』を意味する呼び名である。」

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です