神とは

私たち人間は思い通り行かないものを、ある程度思い通り行くようにして来ましたし、これからもそうするでしょう。しかし思い通りに出来ないものもまだ多くあって、それがたまたま思い通り行けば神に感謝し、いかなければ神に「何故?」と問い続けます。だとすれば、その神は何者であり、私とその神はどうのような関係なのでしょうか。
どうにもならない力の前に、だから神の存在を認めるという事に意味はありません。神の存在を証明するのが人間の務めではありません。しかしどうにもならない力の前で、破壊され傷を負い、大切なものを失い、痛みや疲れを覚えるような時、共に助け合うべき事を私たち人間は何から学んだのだのでしょうか
人間は、自分が一番大切です。しかし、自分以外の他者がいて、そこに関係があります。故に、自分が一番大切でありつつも、その他者との関係を全く無視することを許させない力(存在)があって、それが、私たちがぼんやりと見つめてきた神というものではないかと今私は思うのです。
自然災害や、それに被災した他者、それを見て「何故?」という問いの矛先に神はいません。それは神ではありません。何故なら神はその問いに答えるべき存在ではないし、そもそもそれに答えなどありません。その問いの正体には表裏があって、一面は人間の弱さ故の叫びであり、もう一面は醜い自己正当化であると思います。
近年多発する自然災害は、人間が共に生きる事を喚起する神の教育であると言ってしまってはいけないし、言葉でそれを説明してはいけない。やはり言葉は受肉してこそなのでしょう。
しかし、それにしても今日も雨です。確かに少しは神に抗議したくなるものですが、それはやはり神ではないし、神とはそういうものではありません。抗議したくなるその方向にあるものを神と認識することは、人間自身が「人間とは何か?」という命題から示唆された「共生」に怠慢であることを覆い隠す逃げ口上に過ぎないのではないでしょうか。故に私は今後一切、神に抗議しないし、そういう神を信じない。それは神ではない。
言語活動とは皮肉なもので、言葉に出来ないもの、又してはいけないと分かりつつあるものも、何故そうなのかをやはり言葉で表現することを要求します。
故に敢えて言葉にするなら、神とは共に感じるものなのでしょう。困難に直面した時の汗、涙、祈り、苦痛、慰め、そして細やかな喜び等、その状況で共に分かち合う全てに感じ得たものそれが神であり希望であると思うのです。故に「神とは何か」ではなくて、神は常に困難の只中に在り、だからこそ「人間とは神を信じる存在」なのだと思います。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です