天に富を積む 〜マルコ10.17-22〜

ある人がイエスに神の国に入る術を問うた所、イエスは全てを売り払って貧しい人に施せと命じました。加えて「そうすれば、天に富を積むことになる」と結んでいます。天に富を積むとは教会への献金を指すものではありません。「神を畏れるとは、人を恐れない」と申しましたように、天に富を積むとは言い換えるならば、この世に富を積まないという事です。
イエスは金持ちが神の国に入る可能性は殆どないと言い切っています。しかし有り余った内の1万円もあれば、身を削る100円もあるようにこの金持ちとは客観的なものではなく、この世に富を積む者です。富を積む者とは誰か?象徴的にいえば私たち人間は預金残高に安心を求めます。勿論それを求めることは悪ではありません。しかしイエスに言わせれば「共生」とは貧しい者との富の分配であって、私が安心を得るために積まれた預金残高とそれとは決して無関係ではありません。その関係に無自覚である者が神の国に入る術を問うならば、先ずもってこの世に積んだ富を貧しい人に施せとイエスは命じるのです。
イエス・キリストの神は貧しい者に寄り添う神であり、寄り添うとは単に近くに居ることではなく、自分自身も貧しくなっているのであって、然るに我らの神は貧しいのです。即ち財産のあるものが神の国に入るのは困難であるという言葉は、それは貧しい者の声であって、その貧しい者とは、私が神の国の実現を願っている、即ち空腹の者が満たされる世界を願っている訳ですが、その空腹の者が、この世に積んだ富に安心を得ている私に向けた言葉なのであります
天に富を積みましょう。やや厳しい命令ではありますが、結局はそこを経なければ、イエスにその術を問うた金持ちのように信仰も自己満足的観念に終わります。勿論全てを捧げることなど出来ません。しかし私が求める神の国と私が安心を得るために積んだ富(安心を得る分の富)との連続性が無自覚にならぬように注意しましょう。少なくともそれが神の国を求める者の最低限の節操であると私は思います。

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