「何ゆえ生まれし時、死なざりしや」 ヨブ記3.1-19

苦痛に耐えかねたヨブは遂に口を開き、自分が生まれた日と受胎の日を呪いました。そして死産していれば幸いであったと神に抗議します。善人も悪人も死ねば塵に返る「死は偉大な公平主義者」であるなら、塵に返った悪人はその恩恵に預かる幸せ者と皮肉る程迄に、生き地獄の激しい苦痛をヨブは訴えます。
ヨブの「不幸をも神からいただく」(2.10)との告白は今だ有効です。しかし如何せんこの苦しみは相当厳しい。ヨブは不幸を与える神の業は受け入れつつも、生まれて来なければ良かったと、遠回しに自分に命を与えた神の業を問うのです。
それは、何故これほど苦しまなければならないのか?という問いではありません。その問いの答えは問題を解決しません。その苦しみを「生まれて来なければ良かった」という抗議に変換することによって、では何故生まれてきたのか?人は何のために生きるのか?という問いが惹起します。
苦しむ人に必要なのは、その苦しみの理由や意味ではありません。苦しみからの解放です。しかしそれが今叶わぬ時、人は「生きるとは?」という問いの前に引き出されます。
そもそも人間が生きる意味を考える土俵はそこにあるのかも知れません。苦しみ悲しみ貧困抑圧差別、それらの現実を見ないで生きる意味を考える事こそ意味はありません。
ヨブ記は苦しみの中で、父なる神を呪わず、しかし生まれて来なければ良かったと抗議しながら、結果的に生きる意味(苦しみの理由や意味ではなく)を神に問うています。この問いが、長い長い、真に長い友人たちとの議論の引き金となりました。

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