新しい教え(マルコ福音書1.21-28)

前週の礼拝は、イエスが汚れた霊に取り付かれた男を解放する物語を読みました。人々はその様子を「律法学者のようにではない、権威ある新しい教えだ」と驚嘆しました。
マルコが言わんとする「新しい」とは教えの内容の問題ではなく、律法学者が出来事を解説(言葉化)するのに対して、イエスの場合、その言葉が出来事(事実)になっていく点に着目しています。イエスの教えは言葉ではなく救いの出来事そのものを指しており、そこに新しさがあるのです。
汚れた霊(悪霊)とはユダヤ教特有の表現でこの烙印を押された人は、宗教的に汚れた者として神への礼拝、神との交わりが絶たれていました。したがってイエスによる悪霊退治は、神と人の関係回復を意味します。更に突き詰めれば、イエスの使命が福音宣教宣であるなら(1.14-15)その内実は断絶した神と人の関係を回復することに他なりません。
では、神と人の交わりを断つ汚れた霊とは何者でしょうか?
神のみが主であり絶対者であるとは、人間同士が相対化され対等になる事によって証明されます。即ち、汚れた霊とは人間関係にある主従、強者弱者、貧富、差別、支配などの不等であります。そして神との関係を回復するとは、私たち人間が互いに対等な関係を築くことによって実現するのです。即ち、福音を信じるとか宣べ伝えるというのは神学的な難しい話ではなく、対等な人間関係を回復していく行為(出来事)そのものであり、それがイエスの新しい教えなのです。聖書のみ言葉はその根拠として存在し、み言葉は出来事となり人は対等となって神との関係を回復するのです。しつこく言えば、神との関係を回復するとは、人間同士が対等な関係に成ることそのものなのです。

孫 裕久

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です