「あんたは若くて何でも出来るから分からないけどさ・・・」と言われると確かに返す言葉に詰まります。何でも出来る訳ではありませんが、歳を取って足腰が不自由になると、歩けるだけでその人が何でも出来るかのように見えるのでしょう。
そんな時「誰かの世話をする時代があれば、いつかは誰かの世話になるものですよ。今まで苦労してきたのだから後は甘えて良いのでは」と慰めては見ますが、健康な私の口に説得力はありません。
確かに、誰かの役に立つリアリティーは、生きる意味を実感させます。しかし薄々気付いていた事ですが、ボランティアとはそういう意味で自らの生きる意味を実感させながら、それを頼りとする人をどこかでその意味を獲得する為の道具にしてしまう危険性をはらんでいます。
1991年の洪水で床上浸水した池上主税さんの自宅(今も現存する小屋)を教会員で掃除のお手伝いをしました。その時、少しやり過ぎたのでしょうか、池上さんから迷惑なサインを感じ取り失礼した時のことを鮮明に憶えています。
確かに、何の為に生きるのか?を考えざるを得ない平和で恵まれた人生を送っている我々とって、誰かの為に自分を用いることはその答えを探求する道の一つです。しかし人間が誰かの役に立っていることを実感する為に(勿論それは無自覚ではありますが)、自分を用いるなら、それは他者の生きる意味を食らって生きていると言えるかも知れません。決して誰かの為に役立つことのみが生きる意味とは思いませんし、役に立てない人は生きる価値がないとも思いませんが、足腰が不自由になっていよいよ自力で出来ることの限界が狭まっていこうとする一人のハルモニから「あんたは若いから・・・」という言葉を頂戴した時、他者の為に自分を用いようとする所にこそ謙虚が求められると思いました。そしてその謙虚は、して差し上げることばかりではなく、何かを助けてもらう教えてもらう関係を育んでいくのだと思います。
聞くところによると、昔はマッ◯リや焼◯を良く作っていたとの事です。今度、材料を買い揃えて教えてもらう予定です。