「最も小さい者」 マタイ福音書25.31-46

世の終わり、神は祝福と呪いの座を設けそれぞれに判決とその理由を宣告します
祝福された者へ「お前たちは私が飢えていた時に食べさせ、喉が渇いていた時に飲ませ、旅をしていた時に宿を貸し、病気の時に見舞い、牢にいた時に訪ねてくれたからだ」
しかし彼らは身に覚えがないと応答すると神は「私の兄弟であるこの最も小さい者にしたのは、私にしてくれたことなのである。」と答えました。
次に、呪われた者へ「お前たちは私が飢えていた時に食べさせず、・・・」
彼らが身に覚えがないと弁明すると、神は「この最も小さい者しなかったのは、私にしてくれなかったことなのである。」と答えました。
さてこの最も小さい者とは誰ことでしょうか?聖書学的にこれは貧困者ではなく伝道者を指しています。伝道者の歩む道は険しく、時に飢え、渇き、宿がなく、病に伏し、投獄されます。
全ての人が伝道者になる訳ではありません。しかし困窮する伝道者を支えることは伝道者と等しく神の御心を行う者として祝福されるのだという事でしょう。
さてこの教えで注目すべきは、それぞれの座に置かれた者が互いに身に覚えがない所です。福音がユダヤ民族の枠を越えたとき、当然の前提は崩されユダヤ人が見落とし、異邦人が知らずして手助けする事態が起こりました。
現代を生きるキリスト者はこの点を注視すべきです。福音は常に人間の当然を越えて行きます。伝道者を規制の概念でのみ捉えていると、最も小さき者を見落とします。テキストの文脈から伝道者を今日的に再解釈するならば、それはキリスト教という枠に留まらず、平和のため働き、それ故に飢え、渇き、宿がなく、病に伏し、投獄されている者たちではないでしょうか。
沖縄で被災地で戦地で最も小さき者たちが困窮しています。彼らの渇いた喉に水一杯でも差し出す者は、神を知らずとも祝福の座に招かれることでしょう。

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