問い続ける(ヨブ記3.20-4.11)

理解し難い苦難をその信仰によって乗り越える者があれば、その信仰故に更に苦しむ者もあります。
苦痛に悶えるヨブは死を望みつつも神は柵でその道をふさぎました(3.23)。これはヨブが神への信仰を捨てられなかった事を意味します。
私は「信仰を捨てさえすれば楽になれるのに」と思ったことが決して少なくありません。信仰さえなければ、世に対してもっと素直に悲観的になれたでしょうし、また未来についてもっと楽観的にもなれたでしょう。
信仰さえなければ苦難は苦難として処理できます。しかし信仰者はその時、神に「何故」と問うてしまうのです。神を信じた見返り(それは無自覚の見返り)に相応しくないこの苦難の意味を信仰者は問わざるを得ないのです
その問いに対し、箴言に代表される知恵文学は「それはあなたの罪の結果である」と回答しました。この人間の罪よって神の義は保護され、その回答に従順な信仰者は苦難を乗り越えそれ以上神に問うことはしません。
では、疑念を抱く者は如何にすれば良いのか。もし手早く楽になりたければ神を否定し信仰を捨てれば良いのです。しかしヨブは今ひとつの道を選択しました。神を否定せず、しかし更に問い続けたのです。それ故、ヨブはその信仰故に更に苦しむ者となりました。
信仰とは正解を理解する事ではなく、神の前に正しい問いを立てる事です。それは信仰者に思考の停止を許しません。見たくも聞きたくもない問との対話にヨブ記は読者を誘うのです。

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