「問い続ける」 ヨブ記4.12-21

最初にヨブへ語りかけたのは最年長者のエリファズでした。実は彼も既存の知恵ではヨブの苦境を説明できませんでした。そこで人間の考えが及ばない神の領域に着目したのです。
「人が神より正しくありえようか。創り主より清くありえようか。」(4.17)
即ちヨブは人間を代表する善人ではありますが、人間の考えが及ばない神から見ればやはりヨブも善人足りえず、その考えの及ばない所から(人間にはまだ良く分からない理由で)ヨブは裁かれていると立論しています。
理不尽と思われるヨブの「何故?」をエリファズも部分的には共有しつつ、しかし彼は人間の考えが及ばない神の領域を確保することで、神を擁護し且つある意味「仕方のない事だ」とする答えに到達してしまっています。(更に付け加えれば、にも関わらず神に抗議する人間の不届きさを避難しています。)
しかしヨブは答えを得ていないし、神の擁護ではなく、むしろ神に抗議しています。この抗議に対してエリファズは「お前が未だ知らない神の真実があるのだ」という答えを与え納得を要求しているのです。しかし目の前で苦しみ痛む人にとって、その答えは答えになっていません。厳しくいえばエリィファズは思考を停止しています。
宗教とは解説したり、答えを提供するものではなく、問い続けるものです。答えを求めてはならないとは決して思いません。しかしその答えは常に暫定的であることをわきまえるべきです。宗教とは現実の苦難に対して納得を求めたり与えたり思考停止させるのではなく、常に問い、共に考え、共に歩んでいくものでありたいです。

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