「I want to」(3)

すべきではなく、自分は何をしたいのか?今の私にはそれがありません。それが結果的に他者の「したい」を批判することでしか自己を正当化し得ず、その攻撃材料が「ねばならない」でしかなかったように思います。そんな私には対話する資格すらありませんでした。
「したい」は(パズルの一部ではない)自由で独立した断片であることを知っています。即ち絶対ではないことを知っている故に他者の自由と独立性を認めることが出来ます。
では認めるとは何のか?それは互いに絶対ではなく、ただ許されているだけの暫定的な存在であることを互いに了解する事ではないでしょうか。
実は、対話はその了解の下に成立するのだと思います。一方が他方を教え諭すのではなく、双方が許された存在である事を了解してはじめて対話が成立するような気がします。
私はキリスト者としてイエス・キリストの贖罪をそのように捉えたいと思います。イエス・キリストの赦しによって、私たちのそれぞれの「したい」は許されている。「ねばならない」という拘束ではなく「したい」という自由は許されている。
ただ許されているからこそ、異なるものと対話するのであり、対話することが許されている事を自負する証であります。
人間は完成されたパズルの絵を知りません。しかし唯一絶対なる方だけがそれを知っています。故にそのパズルを完成させるのは神ご自身です。
互いにただ許された存在としての「したい」と、それ故の対話を神がその完成に用いて下さることを信じます。
さてしかしながら以上には、明らかな不十分があることを私は知っています。即ち人を殺める「したい」は(法律上の問題ではなく)許されているのか?という問題です。私には分かりません。しかし確かなことは、その問いの前に立つ時、我々は再び「ねばならない」に拘束され、また他者を拘束するるつぼに埋没してしまうという事です。
人を殺める「したい」は許されているのか否か、それを「ねばならない」に答えを求めるのではなく「私は何をしたいのか」、そこに問い、それを私に今許されている答えとする。遅まきながらこれからはそういう人生を歩みたいと強く願っています。

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