「I want to」(2)

私は「したい」を生きる人が嫌いでした。極論すれば身勝手に思えるからです。例えば教区の仕事など出来ればしたくありません。しかし教団も教区も各個教会との繋がりがあり、その繋がりを無視するのは身勝手だと思うからです。しかし見方を変えれば私は嫌われることを恐れ「ねばならない」それを担う事(また担わせる事)で自分の存在を保っていたのだと思います。
私の「ねばならない」をジクソーパズルに譬えるなら、個人はそのパズルを構成する1個のピースです。パズルの絵は自分が思い描く世界や価値観で、自分がどの様な型のピースで何所にはまるべきかを思考するのが「ねばならない」です。したがってそのパズルの完成には他者も必要であり「ねばらならない」をその責任として他者に要求します。
例えば教憲教規と信仰告白で教団を統一する事等は正に此れに当たりますが、等しく違いを認め合う事も「ねばならない」に陥ると同じ事です。
この「ねばならない」は違いを認めることが出来ません。確かに表面的には違いを認めつつも、本音は話し合えば自分の考えを理解して貰えるだろうと互いに期待しています。結局、他者を自分の思い描くパズルに合ったピースに仕立てる事に熱心なだけで、異なる他者から自分の描くパズルそのものを見直そうとはしません故に異型のパズルは加工するか不良品としてゴミ箱に捨ててしまいます。
例え「反戦平和・多民族多文化共生」を主張しても、この「ねばならない」から自由にならない限り、違いを認める事は困難であるばかりか、違いを認めるとは、結局何をどうすることなのか?そのものが理解出来ず、私も未だ理解していません。
では如何にしてこの「ねばならない」という呪縛から解き放たれるのか。それは私が嫌っていた「したい」を生きる所に糸口があると思うのです。そしてそれはナザレのイエスを知る一つの道であると感じています
(つづく)

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