国と力と栄とは・・・

そもそも権力とは不都合を隠蔽し嘘をつくものです。世間が騒ぐほど驚く事ではありません。問題はそれが以前にも増してし易い環境になっている所でしょう。「見つからない」「廃棄した」と報告した公文書が後から出てきて「すみませんでした」で済む現状こそ本当は憂慮せねばならず、その責任所在は、それでも内閣支持率を40%台(NHK)に維持させている世論ではないでしょうか。

最近気になるのは、内閣支持率(不支持率)と昨今の疑惑に対する国民批判との間に、それ程相関性を感じ取れない点です。内閣支持率に最も敏感なのは景気(株価、為替)であって、それが上昇もしくは安定状態にある時、政権に不祥事や疑惑があっても支持率は大きな影響を受けません。これは国民の倫理観や道徳的節度がなくなって来たのではなく、そういうものが政権を選ぶ基準では無くなって来ており、不思議にも両者(支持率と批判)が併存する所に問題が潜んでいるように思います。

これは宗教倫理にも通じる話題で、敬虔に神を信じながら、社会問題に鈍感な信仰者に同質の問題を伺えます。旧約聖書の十戒が警戒する偶像信仰とは、単に模造物を神と崇める事ではありません。それは自分の意に沿う(形造った)ものを神として崇拝し、その自覚が欠如している状態を指します。即ち、それなりの倫理観を持ちながら、自分が隷属しているものが自分自身の欲でありその自覚が欠如する時、不思議と相容れないあれとこれが併存するのです。

残念がら人間社会においてこの世の権力を完全否定することは出来ません。しかしその権力に隷属し切った時、それは神に取って代わります。そしてその権力が自分の欲を僅かでも満たしてくれるなら、そこに倫理は問わない。よって忖度はケシカランが、政権はお構いなしという不思議な方程式が成り立ち、それが偶像信仰の正体です。平たく言えば自分さえ良ければ良いのです。やかましく言えば節操が無いのです。偶像信仰とは節操の欠如です。然るにそれが自分に利をもたらさなくなった時、その権力もその神も叱責され、捨てられてしまうのです。

「国と力と栄とは限りなく汝のものなればなり」アーメン

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