言葉と叫びの隔たり(ヨブ記5.8-27)

苦しみの理由を神に問うヨブに、友人エリファズは「あなた自身に災いが及ぶとあなたは崩れ去った」と非難しました。そして神の御心は人間の知恵が及ばぬものであり、その理由は人間にははかり難く、全て災いの基は人間自身にあると結論づけました(4.1-5.7)。その上でエリファズは詩篇を引用し神の全き正しさを示し、神は必ず恵を回復するとヨブに希望を語ったのです。

このエリファズの主張(5.8-27)をヨブ記と切り離して読むなら、我々は何の疑いもなく承認したことでしょう。しかしこれをヨブ記に置き、ヨブがこれに反論し打ち砕く時、読者は己の浅はかさを知ることになります。

真理や善なるもの知る、換言すれば神の御心を知るということは徹頭徹尾、未だ知らない己と向き合う事なのかもしれません。究極的に人間は神を知ることなど出来ない。ただそれを知ろうと不断に努め歩む事が人間であるなら、その歩みの中で歩めば歩むほど(ヨブ記を読めば読むほど)、我々は神と人の隔たりを認識する他なく、その認識をもって他、人間は神を知りえず、それを知ること自体が「神を知る」という事なのでしょう。そしてこれは決して観念的な作業ではなく、人間が共に平和を実現していく上で極めて大切な実践であります。

これは当事者性という問題なのかもしれません。当事者性を欠いた知恵文学が当事者の痛みを感じ得ない字面の知恵でしかありえないことを、当事者ヨブは告発しているのだ。

「痛み」という言葉と「痛い」という叫びの限りない隔たりをヨブ記は読者に訴えているのだ。

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