主への祈り(マタイ26:21-25)

最後の晩餐でイエスが裏切り者に言及した時、弟子たちは「主よ、まさかわたしのことでは」と確認を求めた。そして最後にユダが「先生、まさかわたしのことでは」と言った。

マタイ福音書は「主」と「先生」を厳密に使い分けている。イエスを信じるものはイエスを主と呼び、敵対者は先生と呼ぶ。

ここで先生とは表向き尊敬語であるが単なる二人称である。しかし主とはイエスとの関係性を意味している。私たちは祈る時、主に呼びかけるが、それは単なる二人称なのか、それともマタイのように関係性を意識しているのだろうか?主と呼びかける時、そこには自身が下僕であるとの告白が含まれている。

宗教的に祈りとは神仏に願いを求めることであるが、下僕が主人に願いを求めるであろうか。下僕とは主人の命令に従う存在である。ここにキリスト教の神と人の関係性がある。下僕であるキリスト者は主なる神に祈りを捧げることを命じられているのである。そしてその祈りは、主なる神自身の願い(御心)である限りにおいてその祈りは成立する。

一人の重い皮膚病を患っている人がイエスに近寄り、ひれ伏して「主よ、御心ならば、わたしを清くすることがおできになります」と言った。(マタイ8:2)

この願いはキリスト者の祈りの模範といえる。キリスト者は主の御心を祈り、その御心のままに用いて頂くことを願い、全ての栄光を神に帰するのです。

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